ぼっちろぐ!

Eラン私理3女。進路模索中。

期末試験

ヤマは越えたつもりでいる。

でも今回は週末まで気が抜けません。

期末一発勝負の科目も多いので……特に必修は落としたくない。

なのにやる気が出ない。

 

疲れ - ぼっちろぐ!

この日は疲れと人間関係について書いたけど、今日はもう少し、私が考える「人間関係」について踏み込みたいと思う。

私が今までぼっちだったのは「性格に問題がある」のは間違いない。

で、どういう問題か、が重要なポイントになる。

変え得る問題なのか?人間的にどうしようもない人格なのか?

……私は、「変え得る」し、「人格もギリギリセーフ」だと思っている。

私の一番の問題点は、そもそも友人を利害関係の一部としてしか捉えられないことだと思う。

話して楽しい、遊んで楽しい、一緒に帰って楽しい、一緒に授業受けて楽しい……これらに疑問はない。楽しくなきゃ友だちにはなれない。まあ、そこまではいいと思う。問題は、「楽しい」で終われないことが生じてくること。

気を遣う、我慢する、都合をつける、教える、貸す、など。

私が「仲良くなって来たな」と思うと、いつも私が上記の動詞の主体になっている。

今までは、その事実に気づきつつ(注1)も、そのことを伝えられず、かと言って私がその行為を止めることもできず、長期休み等をきっかけにFOするというのが常だった。

注1(もしかしたら一方的というのは私の気のせいかも知れないが、ここでは問題にしない。現在は「気のせい」も視野に入れつつ、私の感性や価値基準を変えようとしている。)

今、またこの事実に気づいてしまった。さらに重要なこととして、私は今回自覚して友好的に、親切にしようと意識して接してきたが(=自分で納得してお節介を焼いたが)、これは今までと同じ行動パターンであった。

つまり、私は意識しようとしまいが、結局はこのパターンに陥ってしまうのである。

自分が納得して優しくしているとか、そういうことは問題ではなかった。

納得していようがしていまいが、意識的であろうが無意識的であろうが、私は過剰に親切にしてしまう。しかも自分の考えや感情を伝えるのは苦手、って、もうこれはコミュ障になるべくして生まれて来たんじゃないかな、私は。

どちらかならいいと思うんです。実際、仏のように優しい人や親切な人、感情や考えを伝えるのが苦手な人もたくさんいると思う。複合している人もまあ、いると思う。

でもそういった人たちはちゃんと、「普段言えないことを正直に言える友だち」を持っている……。

 

そして、ぶっちゃけると、私は利害関係がすべてと考えたいことから、友だちはさして重要ではないと思っている。

社会人になったら、多分友だちはいないと思う。だってもう必要ないから。

今は、過去問や研究室など情報収集のために交友関係を維持している。

就活も終わって、特に手に入れたいものがなくなったら、多分終わりだと思う。

なぜそうなるのか?という問いは、「人間関係は疲れる。一方的に私が尽くすだけなんだから」というわけ……。

書いていて自分でもなかなか悲しくなってきた。

どうしてこんな風になってしまったんだろうと思う。

思い当たるのは、やはり小中学生の時分だ。

あの時に、素直に自分の感情をまっすぐに伝える練習を積んでおくべきだったのだ。

私は「友だちと遊んだらトラブルが起きて、先生にも親にも怒られるから友だちと話したりすることは重要じゃない」と思っていた。実際、授業や集会も静かにして、休み時間も本ばかり読んで成績も悪くはないというような子どもは、教師からしたら扱いやすいだろう。

今悔やんでも仕方ないが、私は小中学生の時に、教師にも親にも怒られたとしても、代えられない友だちづきあいの楽しみを知っておくべきだったのだ。

……そもそも、友だちと遊ぶ楽しさ<<親、教師からの叱責防止に価値基準を置いていたこと自体は私の性格から由来しているだろうな。

あれ、もしかしてこれは私が人に尽くすのをやめない限り解決されない問題なのか。

そうだよ、そうだったんだ。(後半自己完結)